豊登の晩年をたどり波乱の歩みを知る|怪力レスラーの素顔にそっと触れていきましょう

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かつて怪力レスラーとして名を馳せた豊登が、リングを降りてからどう生き、どのような最期を迎えたのか気になったことはありませんか?この記事では豊登の晩年の足取りを、ギャンブルと借金、病気との闘い、仲間の支えという三つの視点から整理します。

  • ギャンブル依存と日本プロレス追放後の転落の流れ
  • 糖尿病や腎臓結石など豊登の晩年の病状と生活
  • 猪木らが行ったチャリティ興行と寺の離れで迎えた最期

豊登の晩年をたどることで、華やかなレスラー人生の裏にあった弱さや優しさも見えてきますので、昭和プロレスが好きな人ほど胸がきゅっとする時間になるはずです。

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若い頃の堂々とした写真と比べると、豊登の晩年の姿は大きく変わっていましたが、そのギャップこそが豊登の晩年を考える手がかりになり、怪力レスラーの人生の厚みを感じさせます。

豊登の晩年を知るために押さえたいキャリアの流れ

豊登の晩年をきちんと理解するには、怪力レスラーになるまでの道のりとどこで歯車が狂い始めたのかを押さえる必要があります。戦後の日本で相撲からプロレスへと転身し力道山の相棒として全国の茶の間を沸かせた流れを追うと、豊登の晩年の転落も一瞬ではなく積み重ねの結果だったことがわかってきます。

相撲からプロレスへ転身した若き日

1931年生まれの豊登は戦後間もない1947年に立浪部屋から角界入りし、前頭まで上り詰めたのち1954年に突然廃業してプロレス転向を選びました。小柄ながらも174センチ114キロの体格と相撲仕込みの腰の強さはレスラーとして大きな武器になり、その土台が豊登の晩年まで「怪力」というイメージを支え続けることになります。

力道山の相棒として頂点を極めた時代

日本プロレス入団後の豊登は力道山のパートナーとしてオールアジアタッグ王座を度々獲得し、テレビ中継の黄金期を支える顔としてお茶の間に定着しました。脇を鳴らす「カポンカポン」のパフォーマンスで親しみを集めた姿は、のちに豊登の晩年が語られるときも必ず思い出されるほど強い印象を残しています。

日本プロレス社長就任とギャンブル依存

1963年に力道山が急逝すると、豊登は未亡人の後を継ぐかたちで日本プロレスの社長兼エースに就任し、一気に組織のトップへ押し上げられました。しかし会社の金庫から持ち出した資金を非合法賭博で一晩に二千万円溶かしたとされる事件など、ギャンブル依存が深刻化したことで信頼を失い、この時期の選択が豊登の晩年の生活苦へ直結していきます。

東京プロレス騒動と国際プロレス移籍

追い詰められた豊登はアントニオ猪木を引き抜いて東京プロレスを旗揚げしますが、ここでもギャンブルによる資金流用などが重なり団体は短命に終わりました。のちに国際プロレスへ移籍してIWAタッグ王座を獲得するなど意地を見せたものの、経営トラブルのイメージは消えず、こうした転々とした歩みが豊登の晩年の居場所のなさを象徴する背景となりました。

新日本プロレス参加と静かな引退

東京プロレス崩壊後もしばらくリングに上がり続けた豊登は、1972年には猪木の新日本プロレス旗揚げにも参加して黎明期を支え、1973年前後に静かに現役生活へ区切りを付けます。さらに1974年には猪木対大木金太郎戦でレフェリーを務めたのを最後に表舞台から身を引き、ここから豊登の晩年に続く長い「空白の時間」が始まりました。

こうしてみると、相撲からプロレスへと上り詰めたサクセスストーリーと、社長就任以降の転落劇は地続きであり、そのギャップが豊登の晩年の物語をよりドラマチックにしています。華やかなスポットライトと裏側のトラブルが常に同居していたことこそが、のちの孤独な晩年を理解する鍵だと言えるでしょう。

消えた怪力レスラーと豊登の晩年をめぐる噂

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リングを離れた後の豊登は、ある時期からファンやメディアの前からほとんど姿を消し、その消息は長く謎とされてきました。豊登の晩年については「路上生活者になった」「お寺に匿われていた」など様々な噂が飛び交い、ファンとしては胸がざわつく話が多いだけに真相を整理しておきたくなります。

噂された「路上生活者」説とその背景

新日本プロレスを離れたあと豊登の消息は途絶え、「借金で首が回らず路上生活者になったのではないか」という噂が一人歩きしました。この説は豊登の晩年にギャンブルによる多額の負債を抱えていた事実と結びつけられて語られがちですが、具体的な住所や当時の写真は示されておらず、あくまで尾ひれの付いた伝聞として扱うのが妥当です。

ヤクザの用心棒と青果市場勤務の証言

作家の色川武大はエッセイの中で、豊登がある暴力団組長のもとで「ていのいい用心棒」を務めていたが糖尿病で痩せ細り往年の面影はなかったと記しています。さらに青果市場で働いていたという証言もあり、これらを総合すると豊登の晩年は必ずしも完全な路上生活ではなく、細々と働きながらも健康を損ねた中年男性として暮らしていた姿が浮かび上がります。

寺の離れで暮らした晩年の実像

力道山未亡人として知られる田中敬子の証言によると、晩年の豊登には身の回りを見てくれる僧侶がいて、その寺の離れの家に住んでいたとされています。彼女が代官山の自宅を訪ねてきた豊登の姿を「痩せていて最初は誰だかわからなかった」と振り返るエピソードからも、豊登の晩年は決して華やかではないものの、完全な孤立ではなく細い人間関係に支えられていたことがうかがえます。

このように豊登の晩年をめぐる話は、流布した噂と限られた証言が入り混じったモザイクのような状態です。どの証言も断片的ではありますが、ギャンブルと借金で行き場を失いながらも、豊登の晩年には仕事や信仰を通じて細くつながる生活の線が存在していたことが見えてきます。

  • 路上生活者になったという噂が一部で語られている
  • ヤクザの用心棒を務めていたという作家の記録が残る
  • 青果市場で働いていたとの証言もあり生活感が垣間見える
  • 糖尿病で痩せ細り豊登の晩年は体調面で厳しかった
  • 寺の離れに住み僧侶の世話を受けていたという証言がある
  • 古い仲間の家を訪ねるなど人間関係は完全には途切れていない
  • 噂の多さ自体がファンの間で豊登の晩年への関心が強い証拠と言える

確かなのは、豊登の晩年が一枚絵の悲惨な転落ではなく、仕事や信仰や昔の仲間との縁がところどころで彼を支えていたという点です。派手なスポットライトから離れた場所で他人の世話になりつつも生き続けた姿は、昭和プロレスのスターが老いていく現実を象徴する物語として語り継がれています。

糖尿病と腎臓病が形作った豊登の晩年の体調

豊登の晩年を語るうえで外せないのが、長年の不摂生とストレスが積み重なって表面化した健康問題です。怪力レスラーのイメージが強いだけに、糖尿病や腎臓結石といった病名が並ぶ晩年の診断には、ファンとしても胸が締め付けられるものがあります。

色川武大が描いた痩せ細った姿

色川武大のエッセイでは、かつて人気レスラーだった豊登が糖尿病で痩せ細り、組長が連れて歩いても迫力がなくなっていたと寂しげに描かれています。ここに示された豊登の晩年の姿は、リング上で「カポンカポン」と怪力を誇示していた男が生活習慣病によって身体的な象徴を失い、自尊心との折り合いに苦しんでいた可能性を感じさせます。

透析治療が必要となるまでの経過

1991年4月30日に新日本プロレスが開催した両国国技館大会「豊登道春激励チャリティー」は、腎臓結石を患い人工透析を受けていた豊登の医療費を支援する目的で行われました。晩年の豊登はそこで久々にファンの前に姿を見せ、猪木から「最大の恩人」と紹介される一方で、集まった収益の一部三百万円を渡されても再び競馬や競輪に使ってしまったと伝えられており、病との闘いとギャンブル依存が複雑に絡み合っていたことが窺えます。

心不全で静かに幕を閉じた最期

最終的に豊登は1998年7月1日に67歳で亡くなり、死因は心不全とされています。糖尿病や腎臓疾患、長年の過体重といった要素が重なった結果と考えられ、寺の離れで僧侶に看取られたとされる豊登の晩年の最期は、公の葬儀も行わない家族だけの静かな別れだったと伝えられています。

健康面から見ると、豊登の晩年は怪力レスラーとして酷使した身体と、ギャンブルに逃げざるを得ない精神的な負荷が遅れてやってきたツケを払う時間だったとも言えます。豪快なイメージとのギャップは大きいものの、生活習慣病や心疾患に悩む元アスリートが増えている現在だからこそ、豊登の晩年は時代を先取りした警鐘として受け取ることもできるでしょう。

猪木や仲間が支えた豊登の晩年の人間関係

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一方で豊登の晩年は、かつての教え子や仲間たちとの細い縁に支えられていた面も見逃せません。とりわけアントニオ猪木が繰り返し「最大の恩人」と呼んだ事実は、豊登の晩年をただの転落物語としてではなく、人間関係の温度を感じる物語として受け止めるきっかけになります。

新日本旗揚げ支援で示した義理堅さ

新日本プロレス旗揚げ当日、豊登はリング上で花束贈呈役として登場し、観客の後押しもあってその場で現役復帰を受諾したと伝えられています。タイツを山本小鉄から借りて急きょ試合に出た姿は、晩年の豊登がなおも義理を通して猪木の船出を支えたエピソードとして、多くの証言者の記憶に残っています。

1991年「激励チャリティー」興行の舞台裏

腎臓病と闘っていた豊登を支えるための「豊登道春激励チャリティー」では、猪木と坂口征二がロープを開けてリングに招き入れ、大観衆の前でねぎらいの言葉を贈りました。豊登の晩年に行われたこの興行は、若き日に東京プロレス騒動で対立した猪木との因縁すら越えて、師弟関係が和解と感謝に収斂していく象徴的な場面だったと言えるでしょう。

雑誌を大切に残したトランクひとつの遺品

チャリティー興行からおよそ七年後、豊登が亡くなった際に残された遺品はトランク一つだけだったと、取材に当たったライターは回想しています。その中身は彼が愛読していたプロレス雑誌の束であり、信頼する記者の連載ページを何十冊も取っておいた様子からは、豊登の晩年においてもプロレスへの愛情と情報への飢えを失っていなかったことが伝わってきます。

ギャンブル依存やトラブルの印象が強い豊登の晩年ですが、その周囲には恩義を感じる教え子や古い仲間、温かい目で見守るファンも確かに存在しました。義理堅さと情の深さゆえに頼られる一方で自分自身の問題には脆さも抱えていた人間像こそ、豊登の晩年を立体的に見せてくれるポイントだと感じられます。

  • 猪木は豊登を「最大の恩人」と繰り返し紹介していた
  • 新日本プロレス旗揚げ戦では花束役から急きょ復帰して興行を支えた
  • 1991年のチャリティー興行でファンの前に再び登場した
  • 興行収益の一部は豊登の晩年の治療費として渡されたとされる
  • 雑誌の束を大切にしまう姿からプロレスへの愛着がうかがえる
  • 古い付き合いの記者や仲間とは晩年まで連絡を取り続けていた
  • こうした人間関係がなければ豊登の晩年はさらに孤独なものになっていた

人間関係の側面から眺めると、豊登の晩年は「捨てられたスター」ではなく、「問題を抱えながらも周囲に愛された先輩レスラー」という像へと少し輪郭が変わってきます。ギャンブルや借金の話だけでなく、支え合いや感謝が交差する場面を併せて思い出すことが、豊登の晩年をフェアに評価するうえで大切だと言えるでしょう。

波瀾の生涯と豊登の晩年が残したプロレス史への教訓

最後に、豊登の晩年が昭和プロレス史や現代のレスラーにどのような教訓を残しているのかを整理してみます。怪力と豪快さで愛されたスターが、晩年には借金と病気に苦しんだ事実は重いものですが、その背景を知ることで私たちファンの試合の見え方も少し変わってきます。

ナンバー2としての生き方と転落の影

豊登は力道山の相棒や新日本の副将格として光る一方、自らが絶対的エースや経営トップになるとバランスを崩しやすいタイプだったと指摘されます。ナンバー2としての気楽さと責任の軽さに慣れ過ぎたことが、社長就任後のギャンブル依存や判断ミスを招き、その積み重ねが豊登の晩年の生活基盤を弱くしてしまった面は否めません。

ギャンブル依存が招いた連続追放の教え

日本プロレスの金庫からの持ち出しに始まり、東京プロレスや国際プロレス、新日本プロレスでも金銭トラブルが尾を引いた結果、豊登は主要団体から次々と離れていきました。才能や功績がいかに大きくても、ギャンブル依存を放置したツケは重く、豊登の晩年の厳しい暮らしは「リング外のマネジメントの重要さ」を後輩レスラーに突き付ける具体例になっています。

ファンとレスラーが語り継ぐ優しさと怪力

一方でファンや関係者が語るエピソードには、若手にちゃんこを振る舞い世話好きだった姿や、地方巡業で気さくに声をかけてくれたという証言が多く残っています。カポンカポンと腕を鳴らす豪快さと、人を傷つけない優しさが同居していたからこそ、豊登の晩年の物語は悲劇で終わらず「人間味あふれる怪力レスラー」として今も語り継がれているのでしょう。

豊登の晩年を振り返ることは、レスラーという職業の光と影、そして一人の人間の弱さと優しさを見つめ直す作業でもあります。昭和プロレスの名勝負をもう一度観るとき、そこに映る豊登の笑顔の裏側にこうした晩年の物語があったことを心の片隅に置いてみると、リング上の一挙手一投足が少し違って見えてくるはずです。

まとめ

相撲からプロレスへ駆け上がり、日本プロレスの社長や新日本プロレスの支柱を務めた豊登の歩みは、ギャンブル依存と健康悪化によって晩年に厳しい現実を招きましたが、その裏では僧侶や仲間、ファンとの縁に支えられた穏やかな時間も確かに存在していました。複数の証言やノンフィクション記事を照らし合わせると、豊登の晩年は「転落したスター」という単純なラベルでは語り切れない奥行きを持っており、私たちがプロレスラーの人生を考えるときの貴重なケーススタディになってくれます。